家長むぎによる「家長むぎ」論について

皆さんこんにちは、京都大学バーチャルYouTuer同好会のすとらです!

普段はVtuberについての自らの無知を自覚し「Vtuberワカラン」を口癖に生きております。Vtuberワカラン。

さて、そんな私が今回お話しするのはこの配信についてです。

実は私は「ものを考える」ということが大好きで、定期的に河原のベンチでぼーっとしながら物思いにふけるという趣味を持っています。そんな私にとってこういった哲学的な話題と言うのは大好物、この配信が告知されたときからワクワクしていました。

 

そもそも家長むぎについて

 この記事を読んでいる人はおそらくむぎむぎのことを知っているので語るまでもないでしょう。普段の配信ではゲームしながらたまに高音絶叫を響かせる彼女ですが、好きな本としてニーチェの『善悪の彼岸』『悦ばしき知識』やエンデの『はてしない物語』を挙げるほど哲学が好きであることでも知られています。noteやinstagramでは自らの考え方や人生観についてたびたび語っており、その端々から本当に様々な物事について普段から考えていることが感じられます。

 

配信の話について

 配信上では「生きるとは何か」「人生の短さについて」「学問とは何か」「頭がいいとは何か」などの話をしていましたが、今回は最後に語られた「家長むぎのあり方」について私なりの解釈を展開していきたいと思います。大前提として、この解釈が「家長むぎが伝えたかった事」と一致しているとは限りません。また、この記事は家長むぎの在り方やそのほかのVtuberさんの活動について否定するものではありません。『家長むぎ論』は他のVtuberの在り方を肯定・否定するものではなく、家長むぎのみに当てはまる論だと考えています。

 まず、この記事は最初に貼った家長むぎの配信を見ていることを前提とします。上記配信の冒頭で注意喚起が行われておりますので、そちらの視聴をお願いします。それを聞いてブラウザバックを考えた方はこの記事もブラウザバックしてください。

 

「家長むぎ」と「私」と「むぎ」

 家長むぎはにじさんじ所属バーチャルライバーとして活動している女子高生です。当然バーチャルライバーとしての姿が全てではなく、我々の知らないところで食事もするし、勉強もするし、ゲームもしているでしょう。そこには私たちが考える「バーチャルライバー家長むぎ」とは少なからず差があるはずです。この実在する存在を「むぎ」と呼ぶことにします。また、「むぎ」には当然自我があります。「むぎ」として生き、「バーチャルライバー家長むぎ」として活動していく中で思考をめぐらしている彼女の自我を「私」と呼ぶことにします。また、「バーチャルライバー家長むぎ」のことを今後「家長むぎ」と表記することにします。

 すなわち、「私」の考えのもとで「むぎ」が「家長むぎ」として活動しているということです。「むぎ」と「私」には、活動する以前に15年間の人生があったし、当然この3年間に限って言っても「むぎ」の全てが「家長むぎ」としての活動であるというわけでもありません。

 

「家長むぎ」の卒業、引退について

(該当部分)

家長むぎの卒業、家長むぎの引退は死です。
他殺か自殺かでいうならば、心中かな。
みんなにとっての家長むぎと、家長むぎにとってのあなたを抱えて死ぬ。

 配信中の発言から3つをピックアップしました。先ほどの定義にのっとって書き換えてみると、私は以下のようになると考えます。(2つ目はそのままなので省略します)

  • 「家長むぎ」の卒業、「家長むぎ」の引退は死です。
  • みんなにとっての「家長むぎ」と、「私」にとってのあなたを抱えて死ぬ。

 ここで大切になってくるのが”死とは何か”ということだと思います。この配信ではこれ以前に”生きる”ことの定義を行っています。

 (該当部分)

 ここで、"生きる"ということが"人間として文化的に生きる"ことであると説明されています。"人間として文化的に生きる"ということは、最低限"自我を認識"している必要があると思います。(これはあくまで必要条件だと考えています。)"自我の認識"についても同様にこの配信内で触れられており、「他者を経由した自我の認識がメイン」と言っています。

 このことを踏まえると、「家長むぎ」の死とは”「私」を含め誰からも「家長むぎ」の文化的生存を認識できなくなる"と言い換えることができるのではないでしょうか。リスナー視点では「家長むぎ」が卒業、引退してしまっては当然「家長むぎ」の今を認識する方法はありません。場合によっては卒業、引退したライバーの話が現在活動しているライバーから語られることはありますが、このように「私」が言っている以上限りなく無いに等しいと考えた方がいいと思います。すなわち、我々からの呼びかけに一切答えてくれない"文化的死"の状態になるということです。

 ここで大切になってくるのは、「私」も「家長むぎ」の文化的生存を認識できないということです。本来ならば、「家長むぎ」が卒業しても「家長むぎ」を認識している他の人を通すことで、「私」だけは「家長むぎ」を生かし続けることも可能です。しかしここでは、「家長むぎ」を認識している他の人との関与を遮断することで、"意図的に"「家長むぎ」を殺す、例えるならば”「家長むぎ」を意図的に何もない密室に閉じ込める"ことを考えているのだと思います。

 ですが、配信上でも言っていた通り完全に消滅させることはできません。それは、「家長むぎ」のことをリスナーが忘れないから、「家長むぎ」がいた証拠をこの世からすべて消すことが不可能だからでしょう。だからこそ、誰からも干渉できない密室に閉じ込めるというのが適切な表現になると思います。

 また、3つ目の言葉を解釈すると、「家長むぎ」の卒業、引退とともに「家長むぎ」にとってのあなた、つまりリスナーが死ぬということもになります。ここでいうリスナーが死ぬとは、当然リスナーの"文化的死"を意味しているでしょう。リスナーの"文化的死"とは、「私」が「家長むぎ」を殺すことで、「家長むぎ」のリスナーがリスナーでなくなるということだと思います。当然、配信者がいなければリスナーは存在しえないですから、「私」が「家長むぎ」を殺してしまえば、私たちはリスナーではいられなくなります。

 まとめると、「家長むぎ」の卒業、引退が心中であるとは、「家長むぎ」と「家長むぎ」のリスナーがともに死ぬ、ということだと思います。これが真実ならば、「私」は「家長むぎ」が卒業、引退するとき、「家長むぎ」を知る全ての人を忘れる覚悟だということでしょう。確かにこれができる人はなかなかいないと思います。

 

「家長むぎ」の在り方について

(該当部分)

 この部分が最も解釈に苦しんだところです。該当部分以降のすべての発言を言い換えたいところですが、それをすると(すでに膨大な)文字数が大変なことになってしまいます。ここでは、以下のセリフを抜粋したいと思います。

家長むぎという存在は自我の拡張。

家長むぎは家長むぎでは出来ないことはあるけれども、少なくとも家長むぎは家長むぎができなかったことを家長むぎにやらせようとして、家長むぎから家長むぎがにじみ出てくるようなメタいことはしない。

わたしはむぎじゃない、むぎはむぎ。

むぎは家長むぎをむぎ自身にしたいんだけど、それは家長むぎを利用してむぎになりたいんじゃなくて、家長むぎにむぎがなりたいってこと

いやなことは、むぎが家長むぎを利用すること。

何か目標を達成する手段としてむぎであるんじゃなくて、あくまでむぎとして生きたいって感じなのかな(コメントより)

  ここの家長むぎが「家長むぎ」「私」「むぎ」のどれに該当するのか、これだけでは複数の解釈が可能だと思います。ここでは解釈の一例を載せておきます。

  • 「家長むぎ」という存在は自我の拡張。
  • 「私」は「むぎ」では出来ないことはあるけれども、少なくとも「私」は「むぎ」ができなかったことを「家長むぎ」にやらせようとして、「家長むぎ」から「私」がにじみ出てくるようなメタいことはしない。
  • 「私」は「家長むぎ」じゃない、「家長むぎ」は「むぎ」。
  • いやなことは、「私」が「家長むぎ」を利用すること。
  • 何か目標を達成する手段として「家長むぎ」であるんじゃなくて、あくまで「むぎ」として生きたいって感じなのかな

 一つ目の理解には、"拡張自我"という単語そのものを知らなければならないでしょう。僕は哲学に関して無知なので詳しいことはわからないのですが、ニコニコ大百科に載ってたのでそのまま利用したいと思います。本来ならば原著を読むべきなのですが、ご了承ください。これによると自我の拡張とは肉体の外側にある自己表現の形らしいのです。配信中に言っていた「体が貫通すると痛いの、首が折れると痛いの」という発言は、「家長むぎ」が自らの自己表現の形であるから、「家長むぎ」が傷つくのは自らの自己表現の損傷に当たるから「私」が痛いと感じるのでしょう。

 二つ目の話の前に三つ目の話をしたいと思います。私の解釈では、日本語を補足すると"「私」は「家長むぎ」の全てじゃないが、少なくとも「家長むぎ」の活動は「むぎ」そのものでしかない。"となります。前半部分は、「家長むぎ」は「私」とリスナーの双方向性の活動によって構成されるものなので全てにはなりえないでしょう。後半部分は日本語の通りで、「家長むぎ」は等身大の「むぎ」を映し出しているに過ぎないという意味だと思います。

 このことを踏まえると、二つ目の理解が多少は楽になるのではないでしょうか。中盤までは日本語の通りですし、最後のところは「家長むぎ」から「私」がにじみ出ることで「家長むぎ」が等身大の「むぎ」以上のものになってしまわないようにしているということだと思います。

 ここで解釈に悩んだのが”利用する”の意味でした。純粋に用いる、利益のために用いる、従属的なものを用いる、様々な意味を含有する"利用する"ですが、私の解釈では”利益のために用いる"が最も近いのではないかと思っています。利益の形は様々で、個人的に想像するだけでも人気・知名度・収益といったわかりやすいものから、バーチャルに存在している(=バーチャルでしか出来ないことができる)ということもバーチャルライバーとしての利益の一つと言えるかもしれません。ここでいう利益が何を指すのかはわかりませんが、これらの一部あるいは全てを指して"利益のためにバーチャルライバーでいたくない"と言っているのではないかと考えています。

 これらを全て集約するものが、コメント欄から出てきた4つ目の言葉だと思います。「私」は、これまで「むぎ」として生きてきた人生と同じように、等身大でありのままの「家長むぎ」として活動してきたつもりだ、活動していきたいという「私」の想いが伝わってきます。

 

おわりに

 この配信を通して、むぎむぎが普段からどんなことを考えているのか、何を考えてバーチャルライバーとして活動しているのか、その一端に触れることができたように感じます。もちろんこの記事は私の考察を述べたものにすぎず、正しさの保証などないわけですが、それでもこの記事を読んだ肩の思考の一助になっていれば幸いです。最後に、この記事を書くにあたって僕の思考の整理の手助けをしてくれた2人の同好会員に感謝と謝罪を。あの時話し合ったことうまく組み込めなくてごめん。

 もしかしたら、ここで触れられなかった前半部分などの話題などについて考察することがあるかもしれません。頭が良いの定義に関する話とかは面白そうですしね。ですが今日はこの辺で筆をおかせていただきます。本日は最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

(記事作成:すとら)