好きなVtuberからクリスマスに思想をプレゼントされました

クリスマス、楽しんでますか?

(https://youtu.be/Br_ueYFiwWcより)

ラングドシャのおはなし」シリーズといえば、毎度毎度良すぎで全俺が激怒していることで有名です。初配信(1話)では良すぎて勢い余ってブログ2本もを書いてしまい、2話では良すぎて勢い余ってドシャ様のFANBOXに入ってしまいました。

そんなおはなしシリーズの第3話が!?!?!?ということで、この配信スケジュールを見て心躍った人は私だけではないと思います。

今回のテーマは恐らく「クリスマス」。様々メッセージ性を持たせられるサブテーマはありそうですがどう来るか楽しみにしておりました。

 

※ここからは第3話のネタバレをゴリゴリに含みます。

 

 

 

※説明口調なところもありますがあくまで感想記事です。考察の類ではありません。

 

 

 

 

 

 

第3話「ラングドシャと愚者の贈り物」

事前予想通り今回のテーマは「クリスマス」(それはそう)、サブテーマは「愛」でした。ええやん。

この記事では、ドシャ様を取り巻く世界での「愛」というもの、及び「実体」というものについて思ったことを書こうと思います。

 

「愛」

「愛」について考えるなら、二コラとレインディアが再開する場面をよく考えてみるのがよいでしょう。恐らくここは2つの主張がなされています。

「無償の愛」とは「暴力」のようなものである。

②「サンタクロース」は「無償の愛」を届けるもののことである。

 

ええやん。。。

 

ニコラの「君がどんなに否定しようとも、愛情はいつだって気が付いたら降り注いでいるものだから」という発言に対し、レインディアは「そんなものは暴力だ」と言い切ります。この「愛情」というのは「無償の愛」と同じと捉えてよさそうで、それは「暴力」であるらしいです。いい表現過ぎか?

これはつまり「愛情は一方通行なものである」ということだと思います。ドシャ様を取り巻く世界では、お互いに愛情を注ぎあうということはドッヂボールよりも雪合戦に近いのでしょうか。互いに一方通行であるからこそ、相手に返せるものがあるかどうかを顧みる必要はないということだと思います。

 

さて、二コラはレインディアとの会話の中で「サンタクロースの正体は子供たちの親である」ということを確信します。なおレインディアとノエルの関係から確信したのですから、ここでいう「親」とは遺伝子で定義される「親」ではなく子どもの発達における役割としての「親」であることがわかります。←これ良すぎ

この「子どもの発達における役割」というのが「無償の愛」を届けるということ、すなわち「サンタクロースになること」なのだと思います。では、なぜ親はサンタクロースになり、子供に無償の愛を届けるのでしょうか。

これは本編中にはあまり触れられていませんが、私は「子供に愛情を教えるため」だと思います。愛情は見えないものなので、他人がどう愛してくれているかは自分が愛する過程から推測するしかありません。そこで自分に愛情を注いでくれている親を愛してみて、なんとなく愛情というものへの理解を深めていくのだと思います。

ちょっと愛着障害の気があったりなかったり私にこのへんが刺さりまくりました。

 

「実体」

ドシャ様をとりまく世界には、いくつかの「実体」を持たない存在が出てきます。人魚姫は王子様を追いかけることでのみ存在していて、二コラはサンタであることでのみ存在していました。ここでいう「実体」というのは肉体がどうとかいうことではありません。何が言いたいのかというと、恐らく

Vtuber「天使代行ラングドシャ」もまた、消費されることでのみ存在している

ということです。薄明光線の歌詞に「消費されたって消えたりはしないから」とありますが、むしろ消費されていないと消えてしまうのではないかと思います。Vtuberというものはリスナーがいなくなるとなくなってしまうものなのです。

これね~~~~~良い。。。。

 

最後に

謎の説明口調でオタク特有の長文を書き連ねてまいりました。ノエル可愛すぎとか人魚姫やっぱ好きすぎるとか他にも言いたいことは色々ありますが、その辺を表現できる自信がないので他のファンの方に任せようかと思います。

ここまで読んでくださった信者の皆様ならご存じかもしれませんが、弊サークルがコミックマーケット99にて頒布する同人誌「V推しなんしょぷらす」にドシャ様へのインタビューを掲載しております。活動に対する思いなどをベースに色々面白いことを伺いましたので、ぜひお手に取っていただけますと幸いです。

(記事作成:852)