家長むぎによる「家長むぎ」論・続論

注意事項

①この記事はにじさんじ所属バーチャルライバー「家長むぎ」が2021年4月11日に行った「人生の短さについて、家長むぎの定義、贈与的なあれこれ」についてのものです。適宜引用してはいますが、記事を読む前に一度アーカイブを視聴することを推奨致します。この記事を読みに来るようなあなたにおすすめの、とても興味深い配信です。

②最大限配慮はしていますが、いわゆる「メタい」内容が含まれます。アレルギー反応の出る方はブラウザバックをお願いします。

③当ブログにて公開されております「家長むぎによる家長むぎ論について」を先に閲覧された方が、内容や考え方の比較などでより面白いと感じていただけると思います。なお、こちらの記事の方がより踏み込んだ内容になっています。

この記事ってどういう記事なの?

配信から汲み取るべきこと

 「人生の短さについて、家長むぎの定義、贈与的なあれこれ」は、家長むぎ自身が「家長むぎ」の在り方、もしくは生き様について語った配信です。この中で家長むぎが伝えたいことは「Vtuberとはこういうもので、こうあるべきものである」ではなく「家長むぎとはこういうもので、こうあるべきものである」というものに過ぎません。つまり家長むぎはVtuberについて複数の在り方を認めており、その中から家長むぎがどの在り方を選び取ったのかということが配信の骨子になっています。

 この記事では家長むぎが残したいくつかのキーセンテンスを通して、家長むぎから見た家長むぎというものを解釈していくことを目標とします。なお当然筆者は家長むぎではありませんので、この記事で提示される解釈が正しいという訳ではありません。

理解すべきキーセンテンス

①私はむぎじゃない。むぎはむぎ。

②むぎは家長むぎをむぎ自身にしたいんだけど、それは家長むぎを利用してむぎになりたいんじゃなくて、家長むぎにむぎがなりたいってこと

意味わかんね~~~~~~~~~と思ったあなた、奇遇ですね。私にもわかりません。

結論から教えて!!!!

家長むぎにとって家長むぎとは、家長むぎを借りた家長むぎの人生そのものであり、家長むぎの目標は家長むぎが家長むぎによって家長むぎとして生きられるということにある。

なんもわからんあなたも、なんとなくわかった気になったあなたも、一緒に家長むぎの思考を辿っていきましょう。

登場人物紹介

「私」

家長むぎにとっての「私」。これは我々リスナーがどうとかなんとか関係なく固定された対象である。我々は「家長むぎ」「むぎ」を通してようやく観測した気分になることができる。

「むぎ」

17歳の高校1年生。中学を留年している。
食べることが大好きだが、料理が壊滅的に下手。よくゴミ袋と猫を間違えてしまう。友達を作りたくて配信を始めた。

「リスナー」

日々Vtuberを見てニチャついているオタクの集団。実は「私」「むぎ」とともに「家長むぎ」を構成する要素であるがそのことに気付いていない。鈍感系かも。

「家長むぎ」

にじさんじ所属のバーチャルライバー。家長むぎに関わるもの全ての情報や思いなどが生み出した概念である。「私」「むぎ」「リスナー」の三要素が不可欠。人々の内部にのみ存在するものであるために外から見ることはできない。

家長むぎと生

家長むぎにとっての生

まずはキーセンテンスが放たれる以前に家長むぎが言ったことを辿っていきます。特に押さえておきたいのは家長むぎが「生」および「死」についてどう考えているかということです。そのことに関して言及してそうなところを引用してみます。

・「人生」と「生きる」は大体同義。

・他者から見て生きていても個体として死んでいたら「死」。どれだけ人々の心に残ろうと死んでいるなら死んでいる。

 これらの発言、および生死にかかわる話題でたびたび出てきた「自我」という言葉を合わせて、家長むぎ流の「生きる」をこう定義してみます。

「生きる」とは、「自我」が連続する状態のことである。また、「生きている」期間のことを「人生」と呼ぶ。

「生きている」とわかるから「生きている」という状態にある、とも言い換えられます。

家長むぎにとっての自我

当然、ひょっこり登場した「自我」についても定義する必要があります。というわけで「自我」について言及してそうなところを引用します。

・他人と関わって、「他人の考える自分」と「自分の考える自分」のギャップを自覚することで自我を確認することができる。恐ろしいねぇ…。

・自我って自分ひとりで形成されるものではない、というのがむぎの考え。

・他者を使った自我の認識がメインなんじゃないかなって思う。

 自我についてはかなり直接的に家長むぎによるイメージが語られています。これを踏まえて家長むぎ流の「自我」をこう定義します。

「自我」とは、自分の行動に対する他の反応を確認することで生まれる感じ方の変化である。

 この後のことも考えて、一般に使われる「自我」という日本語よりもかなり広い概念として「自我」を導入しました。ここの「他」とは人に限らない自分以外のことを指します。同じように「感じ方」とは感情に限らない感覚一般のことを指します。

家長むぎにとっての「生きる」

以上のことから、家長むぎにとっての「生きる」ということを定義することができました。

家長むぎにとって「生きる」とは、自分の行動に対する他の反応を確認することで感じ方が連続的(継続して)変化するということである。

例えば「音楽を聴く」という行動を選択するとき、音楽によって音の感じ方がずっと変化していて、だいたい感情の感じ方がずっと変化していて、場合によっては振動で触覚の感じ方もずっと変化しています。これ家長むぎ的にはめちゃくちゃ生きてます。

「家長むぎ」にとっての「生きる」

これを「家長むぎ」に当てはめて考えると、①「私」がまず行動を起こすと決めて、②「むぎ」によって行動が外界と接触し、③他である「リスナー」が反応し、④「むぎ」がそれを受け取って、⑤「私」の感じ方が変化するということになります。

この「私」→「むぎ」→「リスナー」→「むぎ」→「私」の流れがないと「家長むぎ」は生きられません。逆に言うと「家長むぎ」の生には「私」「むぎ」「リスナー」の三要素が必要です。

「家長むぎ」が死ぬ

家長むぎにとって引退とは?

配信内で家長むぎは、「家長むぎ」にとっての引退について語っています。

・家長むぎの卒業、家長むぎの引退は死です。
・他殺か自殺かでいうならば、心中かな。
みんなにとっての家長むぎと、家長むぎにとってのあなたを抱えて死ぬ。

 先ほどの「生きる」のテーマに沿ってこれを考えてみましょう。家長むぎが引退するとき、「私」は何をして、「家長むぎ」はどうなるのでしょうか。

家長むぎの「死」

家長むぎは引退すると死にます。「死ぬ」は「生きる」の裏返しであると考えると、先ほどの定義を利用してこう言い換えることができます。

家長むぎの引退とは、「私」が行動しなくなり、他の反応を確認しなくなることである。

Vtuberを引退するということは、「家長むぎ」はそれ以上人に何かを発信しないということになります。これは定義上「死んでいる」と十分に言えます。

家長むぎの「死因」

家長むぎの死因は「心中」だそうです。家長むぎは、「家長むぎ」が死ぬとき、「リスナー」も一緒に死ぬ(殺す)と言っています。これは「家長むぎ」三要素を考えると以下のように言えます。

心中とは、「家長むぎ」から「私」及び「リスナー」がいなくなるということである。

ここでわざわざ「心中」と言っているのは、「私」のみならず「リスナー」もいなくなるということを強調するためでしょう。

「心中」ということの意味

「心中」するのは強い覚悟のいることであると家長むぎは語っています。このことから「リスナー」がいなくなるというのは、「家長むぎ」の引退とともに「私」が「リスナー」を忘れることで「リスナー」という存在を「家長むぎ」から殺すということだと考えられます。

家長むぎにとっての「家長むぎ」

この項では「私」にとって「家長むぎ」の死が明確に定義されていることが分かりました。つまり、「私」にとって「家長むぎ」は生と死がはっきりしたものなのです。これは以下のように言い換えることができます。

家長むぎにとって、もしくは「私」にとって「家長むぎ」は人生そのものである。

「家長むぎにとって『家長むぎ』の引退は死である」ということの裏返しから得られる結論をおよそ3000文字使って解釈してまいりました。さて、これからはいよいよ「私」にとって「家長むぎ」はどうあるべきかということを探っていきます。

キーセンテンス①の解釈

誰が誰と一緒なの?

私はむぎじゃない。むぎはむぎ。

 記事内で使っている括弧付きの用語は家長むぎの発言と対応しているものではありませんので、家長むぎの発言における「私」「むぎ」をこの記事内の定義に則って変換する必要があります。

ここで問題になるのは、「私」「むぎ」「家長むぎ」という3つの要素が存在するにも関わらず、家長むぎはそのうち2つの関係にしか言及していない点です。言葉が使い分けられていない以上解釈のしようがないので、別のところから考えてみましょう。

「私」と「むぎ」と「家長むぎ」と

「私」と「むぎ」と「家長むぎ」。これに近いところで家長むぎはこう発言しています。

家長むぎって肉体の拡張じゃないんだよね。家長むぎという存在は自我の拡張。

 「家長むぎという存在」という言葉から、2文目は「私」にとっての「家長むぎ」が肉体の拡張でなく自我の拡張であるという意味だと考えられます。自我の拡張なわけですから、何か「他」が必要ということになります。この「他」というのが「肉体の拡張でない」もの、つまり「むぎ」そのものです。つまりキーセンテンス①はこう解釈できます。

「私」は「むぎ」じゃない。「私」は「家長むぎ」。

家長むぎに自我が2つ…来るぞ遊馬!

さて、ここまでで家長むぎに関連した2つの自我が出現したことにお気づきでしょうか。「私」の自我は「むぎ」と向き合って生まれるもの、「家長むぎ」の自我は「リスナー」と向き合って生まれるものであるので、この二つは別物であるということが分かります。2つの自我が存在するということは当然そのズレが生じるはず。という訳でキーセンテンス②に移りましょう。

キーセンテンス②の解釈

むぎむぎ言いすぎてわからん

むぎは家長むぎをむぎ自身にしたいんだけど、それは家長むぎを利用してむぎになりたいんじゃなくて、家長むぎにむぎがなりたいってこと

どの家長むぎがどの家長むぎであるかは全くわかりませんが、「家長むぎが家長むぎになりたくて、その方法が2つある」というようなことが分かります。これは、「Vtuberとしての複数の生き方から家長むぎはどれを選んだか」というこの配信の内容にとても近い部分だと考えられます。

ズレてるものは?

「家長むぎをむぎ自身にしたい」という一節から、家長むぎとむぎが別物でそこにズレが生じているということがわかります。「むぎ自身」という言葉からも、これは「私」の自我と「家長むぎ」の自我との関係を言った言葉と考えられます。ということは、「私」と「家長むぎ」を近づけるときに「家長むぎを利用する」過程と「家長むぎにむぎがなる」という過程があるようです。

自我のズレ解消法

「私」の身の振り方で「家長むぎ」と「私」とを近づける2つの方法として考えられるのは、「『私』を『むぎ』に近づける」という方法と、「『家長むぎ』を『私』に近づける」という方法です。

「私」を「むぎ」に近づけるとは、いわば「私」が「むぎ」の様子を想像してそれに近い行動を取るという方法です。「『むぎ』を演じる」と言い換えることもできます。対して「家長むぎ」を「私」に近づけるとは、「私」を強く発信することで「リスナー」から見た「家長むぎ」を変えていくという方法です。「『リスナー』を誘導する」と言い換えることもできます。

2つともVtuberとしての生き方として自然なものですが、家長むぎはどちらを選んだのでしょうか。

メタいってなんだ?

どちらを選択したかのヒントは、この発言にあります。

家長むぎは家長むぎでは出来ないことはあるけれども、少なくとも家長むぎは家長むぎができなかったことを家長むぎにやらせようとして家長むぎから家長むぎがにじみ出てくるようなメタいことをしない。

 注目したいのは「家長むぎから家長むぎがにじみ出るようなメタいこと」という部分。これは「むぎ」から「私」がにじみ出ることを「メタい」と表現しています。とはいえ常に「むぎ」を通して「私」は見えているはずですので、これは「私」のうち「むぎ」を通して「リスナー」が観測しえないはずの部分が見えてしまうという意味の表現です。

ということは家長むぎが選択しなかった「家長むぎを利用する」過程では、「私」の部分ごとの乖離がとても大きくなるということが分かります。これは「『私』を『むぎ』に近づける」という方法のことでしょう。

つまり、家長むぎは「私」と「家長むぎ」とを近づけるのに、「『私』を『むぎ』に近づける」という方法ではなく「『家長むぎ』を『私』に近づける」という方法を取ったのです。

これがまさしくキーセンテンス②の解釈です。

家長むぎ人生

「私」にとって「家長むぎ」は人生であるということは先に述べた通りです。ここで「家長むぎ」がどういう人生であるかについても考えてみましょう。配信ではこう言及されています。

(家長むぎにとって)Vtuberは人生のサブ垢ではない。

ここでいう「サブ垢」とは、本垢と連動していないタイプのものを指すのではないでしょうか。つまり家長むぎにとってVtuberは「第二の人生」ではなく、「私」の人生そのもの、もしくはその延長であることが伺えます。これはこの項で述べたこととも一致しています。

家長むぎを理解しろ!

以上が当該配信からうかがえる「家長むぎ像」です。これに従って先に述べた結論を括弧付きの言葉に書き換えると以下のようになります。

「私」にとって「家長むぎ」とは、「むぎ」を借りた「私」の人生そのものであり、「私」の目標は「むぎ」が「私」によって「家長むぎ」として生きられるということにある。

あくまで一つの解釈に過ぎませんが、こういった考えを基にすると配信内での発言がよく理解できると思います。この解釈が正しそうか間違っていそうか、また皆様自身はどう感じるかということを確認するためにも、もう一度配信の特に後半部分を視聴してみることをおすすめ致します。

(記事作成:852)