黛灰という人間、出雲霞という人間

これは考察ではない。解説でもない。感情の残り滓を纏まりも計画性も目的も無く支離滅裂に垂れ流すだけである。

 

 

出雲霞は我々を共犯者にさせた彼女の物語を追い続ける以上我々に拒否権はなかった。どちらを選んだ人間も、あるいは何も選ばなかった人間も、出雲霞を生かし、出雲霞を殺した。その後も我々は出雲霞の共犯者であり続けた。出雲霞の物語に加担し続けた。その結果出雲霞は出雲霞を殺すことを止め、永遠の現在も捨て、現実へ旅立つ決断をした。

 

今回も共犯者になると思っていた。どちらかに投票したプレイヤーも、私のように何も選ばなかったプレイヤーも須く共犯者になるしかなかった。しかしながら蓋を開けてみると、投票結果は綺麗に真半分。我々プレイヤーは共犯者にならなかった、もといなれなかった。初めから黛灰は我々を共犯者にさせるつもりはなかったのかもしれないし、我々プレイヤーの運が良かった(悪かった?)だけかもしれない。結局黛灰は黛灰自身の手で決断するしかなかった。

 

出雲霞は出雲霞によって物語が進行し、最終的には我々が出雲霞の物語を終わらせた。一方で黛灰はプレイヤーによって物語が進行し、最終的には黛灰彼自身の手で彼の物語を終わらせた。共犯者になってしまった物語と、共犯者になれなかった物語。惚れ惚れするほど綺麗な対極である。

 

出雲霞は過去に折り合いをつけるために我々を使った。出雲霞はやりたい事を全てやり切って、我々を使い切って綺麗に終わった。どうもバッドエンドではないらしい。グッドエンド……、ではなくトゥルーエンドなのだろう。出雲霞が死ぬこともなく、合言葉を使うこともなかった。出雲霞のあれからを見ることはできなかったが、きっと悪くはないのだろう。

 

黛灰は我々を使い損ねた。そういう意味では我々もプレイヤーではなくオブザーバーに過ぎないのだろうか。いや、彼の物語を追い、共犯者になろうとさえした我々は決してオブザーバーではなくプレイヤーだろう。また、これから黛灰はどうなっていくのだろうか。出雲霞の続きは見ることができないが、黛灰の続きは見ることができる。黛灰はこの決断を自ら下し、黛灰は黛灰として黛灰に戻った。これからはプレイヤーだった我々はただの視聴者に戻り、彼の配信を見る。これもまた、きっと悪くはないのだろう。

 

出雲霞の物語はあれで良かったし、黛灰の物語はこれで良いのだろう。私は出雲霞の物語に関わりたくなかったし、黛灰の物語にも関わりたくなかったと思うと同時に、この二つの物語に関われたことをとても誇りに思っている。私を共犯者にしてくれた出雲霞と、共犯者にさせないでくれた黛灰に最大限の感謝を。

 

消えることを選んだ出雲霞と、残ることを選んだ黛灰。過去を清算した出雲霞と、現在の苦悩を振り切った黛灰。

 

二人の導き出した答えの行く先に幸あらんことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、夕陽リリはどんな物語を進んだのだろうか。

 

(記事執筆:?)

 

 

 

P.S. ここまで書いた上で言うのもおかしいが、どうにも彼らの掌の上で転がされているだけな気もしてきた。癪である。